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わたしたちの肉体は「シェアハウス」と同じ 〜負のシステム・負の仕組みについて(10)

わたしたちの肉体は「シェアハウス」と同じ 〜負のシステム・負の仕組みについて(10)


昨年1年を通して、わたしが「わかった!」と思った画期的なことのひとつが「負の仕組み」です。 あまりに奥深いのでシリーズで書いています。 前回の話はこちら。   =============   こうなってくると、Kにまつわる過去のいろんな出来事が、やたらと鮮明な意味性を帯びてくる。 不受不施派のwikiにこう記述があるわけだが、 1616年(慶長17年)日奥は赦免されて妙覚寺に戻った。1630年(寛永7年)、受布施派の久遠寺は、「池上本門寺の日樹(不受不施派)が、久遠寺について、謗法をしており、参詣する者は地獄に落ちると言いふらし、潰そうとしている」などと幕府に訴え、江戸城にて両派が対論(身池対論)した[1]。この時、久遠寺は本寺としての特権を与えられるなど、幕府と強い繋がりをもっていたことからそれを活用し、結局政治的に支配者側からは都合の悪い不受不施派側は敗訴し、追放の刑に処されることになった。この時、日奥は再び対馬に配流されることになったが、既に亡くなっており、遺骨が配流されたとされる。   身延山久遠寺は 「受布施」つまり、お金を受け取っても良い派だった。 そこでピンと来たのは、 わたしはなんとなく毎年身延七面山に登るのだが、Kはある時一度登ったきりで「もういいわ」と言い、その後は登山に気が進まないこと。 特に気にしていなかったが、今にして思えばそういう所縁があったのか。     さらに思い出すのははるか学生時代のことで、 Kはひょんなことからフィレンツェにしばらく滞在することになったのだが、 そこのイタリア人家族が熱心な創価学会の信者(ちなみに創価学会さんはイタリアでめちゃくちゃ強いですよ。てか、ワールドワイドか)。...