非常に個人的な話になるので、人の理解を求めるものではないが、自分にとってあまりにも完璧なタイミングで、あらゆる意味で完璧な「指南書」とでもいうべきものに出会ったので記しておきたい。
本はなるべく買わないようにしているが、それでも気づくとなぜか増えている。
先週、検索したわけでもないのにAmazonに表示された一冊。
普段の自分なら、まず買わない。
タイトルも、「パワースポット」という言葉が使われている時点で嫌だし、「現代の怪談」なんて、もう今さらヨソサマの話を仕入れたくもない、むしろこっちが披露したいぐらいだし(笑)、著者も知らない。
表紙の写真もぜんぜんグッとこない。
でも、なんだろうか、
「買え!読め!」と強く言われている気がして、いや、ほんとうに買う動機がなかったのにKindle落とした。
普段だと、そこで終わり、結局読まない。
でもなぜかそのままページをめくったら、序文だけでもって行かれた。
あーー、これは読むべき本、本当に価値のある本だというのは、ものの数ページで完璧に理解できた。
この方の言う「異界」の定義は、
自分が実際に足を運ぶことで、自分の中になんらかの精神的な化学変化が起きる場所。
その条件は、ほとんど手つかずの自然が残されていて、強いエネルギーを発していること。
世間で言われているパワースポットに必ずしもパワーがあるわけではない。人間の気が多く集まることによって自然の気を汚してしまう。だから質の良いパワースポットというのは、ひっそりとあまり人の知らないところに佇んでいる。
そしてそこには悠久の時間の経過の中で、なんらかの記憶(そこに存在した人間の記憶、あるいは自然そのものの記憶)の蓄積があり、その記憶を掘り起こすことが異界探報の醍醐味である
としている。
この方について浅学なわたしは全く存じ上げなかったが、
14歳で出家、臨済宗の僧侶となったあと、34歳で渡米、ハーバード、ペンシルベニア大学で博士号を取るなどの煌びやかな経歴ののち、60越えだかの折に宗旨替えをして天台宗に。「高齢」でありながらも再び厳しい修行に、、、、
というアタマとカラダ、感性までも可動域の極限までフルに使っていらっしゃる、「国際的な比較宗教学者」というタイトルでは表せない真の超人、とお見受けした。
いくらわたしがバカ丸出しでも、そのような方の著書を取り上げて、「我が意を得たり」としたり顔をするほど厚顔無恥ではありたくないわけだが、
でも、でも、控えめに言って自分が日頃感じている全てがこの本の中に書かれていて、正直に言って驚いた。
そして、
この方ならわたしの行なっている現在の活動と思いについて、寸分違わず理解してくれ、また仮に万が一わたしが迷ったら、よきアドバイスもいただけるのではないか、、、、などと勝手に想像し、勝手にお慕い申し上げる気持ちが湧いてきた。
かねてより、自然の力、世界の仕組み、霊魂の仕組み、想念、歴史、生命活動、エソテリック、宗教組織、、、といったおよそ人間のこの世に暮らす上でエッセンシャルな要素を、自由闊達に「経験値から」横串で語れて広められる人はいないのかな、、、、、と悲観的に考えていたから、
「いるよ〜〜〜〜」
ということを俺2号が教えてくれ、この本を読むことになったわけなんだな。
あっという間に読了。
いや、本当にすごかった。
ここに語られている体験とその心象風景が、「手に取るようにわかる」というのも、本当に失礼すぎて憚られるけれども、あまりにドンピシャすぎて、その、、、、ただただ驚くばかりだ。
だいたい、本章始まってすぐに、室戸の洞窟で空海の得た「明星が口から入ってきた」体験のこと、次に最近調べたばかりの比叡山横川のこと、とわたしにとって超ホットなトピックが続き、「岩」と「岩の(地球の)記憶」、海外の修道院を訪れては「確かに、ここにいたことがある」というご自身の過去世記憶、出雲大社本殿には何もいないが、脇の三社はものすごい、、、、などなど
いや、返す返すも失礼だが「いるんだ!こういう人!」、わたしにとっては「み〜つけた!」の喜び爆発だ。
死者に思いを寄せる、この世にいない人と対話する(そしてそれは成立する)、ということだけでも、
軽薄な「用語」で済まされてしまう、界隈のレベルとは違う深み。
そしてそれこそが「気づき」(言い換えれば悟り、現象で言えば浄化)のキモであることも、実にサラッと的確に示されている。
真摯な気持ちで対峙し、善悪ではなく、「対話」を成立させること。
気持ちの寄り添いが伴わないのに、むやみやたらに手を入れれば良いというものでもないこと。
それと、これも絶対人にはわかってもらえないだろう自分の心象風景として、
因縁の解除が達成できた際に、ちょっと語弊があるけれども依頼者である人間が喜ぶことも嬉しいけれど、「因縁」=想念の出どころが解放されたことに非常な甲斐と安堵を感じる自分がいて、
しかしそれは一体なんなんだろうと思っていたが、
この箇所にて号泣してしまった。
それから、引用はしないが、
この方が「お前がいるだけで、目の前を通る人間がみな快癒するレベルになるよう修行せよ」と啓示を受けるところも、泣けてしまった。
鯔のつまり、みな目指すところはそこなんじゃなかろうかと思うから。
けれども、それを口にすることは憚られる。
なぜならそれは「(できるわけない)大それたこと」、人間の力では及ばないことと決めつけて、そんなことを口にする人は「不遜だ」「不敬だ(何に対する?)」ということになるから。
(・・・・ということは、ジーザスがたくさんの不治の人を「治した」のにペテン師だと言って石を投げられて惨殺された時代から変わっていないまま2020年間が過ぎた)
こういう方が存在していることがわたしには心強く、同時に、わたしに「足りていないもの」 についても痛感させられた。
その最たるものは「知性」ではなかろうかとも思ったし、「自信」かもしれない、とも思った。
序文だけでも読む価値があるので、ぜひ読んでみてほしい。Kindleで読める点も◎
2 comentarios
みかさん、そうなんだよね。
メカニズム的には今までに言われている「前世」ではなくて、情報層へのアクセスなんじゃなかろか、、、とわたしも思ってる。
https://twitter.com/koji_yamada_11/status/1286125089625387009?s=20&t=rwMLiziJQ1EwbE-6Y6CqYQ
この説とか。
かおりさんとこちらの著者の方の認識と似たような考えの元に、その延長線で。
私は【前世】というのまあまあ不確かなものだと思っています。
ある個人の前世がとある人物~というよりは。
その個人が、とある人物の意識を掴みやすいグループの魂、または領域(階層?)が近い程度のものではないかと疑いだしました。
最近ですけどw