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【空海】水と水銀、高野山奥の院


【空海】水と水銀、高野山奥の院


山田貢司さんという方がいて、この方、わたしは天才だと思っていて信頼申し上げている。

彼が「音と数学」で説明してくれる波動学が、この上なく難解でありながら、この上なく興味深い。

わたし、数字というものが心底苦手なんだけど、ヤマダさんの数学はめちゃくちゃ数字への興味をそそられる。むしろ今までの数学は「学ぶ必要がなかったから学ばなかった」んだろうなと思わせる。

これまでの数学(および科学一般)はベースとなる認識というか認知が間違っているので、導き出される答えもすべて間違っている。

簡単にいうと2Dで認識するか3Dで認識するかということになるのだけど、この目からウロコが落ちまくる彼の提唱を知りたければ波動学講座を受講した方が良い。

これを知っていくと、今現在「科学が〜」とか、「学会では〜」とかのアカデミズム信奉と、そこを論拠にしたさまざまな御説が気の毒に思えてくるぐらいの破壊力、そして説得力だ。

とはいえこの波動学の講座は難解なので、本腰を入れて視聴しないとついて行けぬ。

 

という前置きはともかく。

掲題の件。

 

 

水について。

水は液体、固体、気体と変化するわけだが、一般的にモノは固体になると重くなるはずなのに、水の場合は温度が4℃の時が最も重くなる(固体である氷の方が軽い)。

その理由について、「現代科学」では真っ当な説明を得られない謎だが、ヤマダ理論では整然と解明される。

 

 

 

すべてのもの、すべての存在は「振動」で、外部からの倍音によるものと内側(そもそも持っている)内在倍音がある。

水(H2O)は条件(つまり音程、つまり意識)が揃えば変容、変質する。倍音の比率次第。

水は記憶媒体であるから体内の情報は記録されるが、水は蒸発する性質もある。

 

空海が水銀を飲んで体内に蓄積させたのは、自分の水情報を水銀に記憶(転写)させたのではないか?

死後、水分は蒸発して肉体は干からびても、記憶を持つ水銀は残留し続け、振動し続けている。

 

それゆえ空海は「入定」して、「今も生きている」とされるのは理にかなっている、というか納得できる。

 

・・・この説にはかなり鳥肌が立った。今までずっと、そこがどうしても納得いく考察がなかったから。

 

 

また、さらに鳥肌が立ったのは、

「ある一定条件が揃えば、ゼロから水を発生させることができる」というもの。

空海クラスならそんなことは簡単だろう。

それゆえ、「月のしずく」で知られる「ゆの里」の逸話で、その水に力があるわけだが、某社に商売を持ちかけられたら水が出なくなってしまった件とか、

時期を待ったかのように、性質の違う新たな水が湧き出してきた件はなるほどと思える。

 

ちなみに、先日香川で発見した「空海の泉」にしても「深い断層から組み上げる限りのある水」(つまりやがてなくなってしまう)とされているけれど、なくなったらまた「発生させる」ことは可能で、奥の院から空海がコントロールしている(かもしれない)。

 

しかし、しかし、わたしが鳥肌立ったのはそこではなく、

こないだ書いたかな?

長崎の生月島付近で見た、隠れキリシタンの聖地「中江ノ島」に関してずーっとひっかっかっていた伝承、

柱状節理の岩の前で、キリシタンがオラショを唱えると「水が出てくる」(カトリックの祈りでは出てこない)という話が、めちゃくちゃ腑に落ちたからだ。

 

ほら。

生月島北部の壱部(いちぶ)に住むかくれキリシタンの川崎雅一さん(67)は昨秋、数年ぶりに中江ノ島で「お水取り」をした。
 島の中央部に、縦に亀裂が走っている崖がある。そこに供え物をして、ろうそくをともすと、正装した3人の信者仲間と声を合わせ、禁教期から受け継ぐ「ごしょう」というキリシタンのオラショ(祈り)を約1時間唱え続けた。すると亀裂からじわじわ水が染み出てきて、茶わん1杯分ほどを採取した。
 水は持ち帰り、「お魂入れ」の儀式をすることで聖水の「お水」となる。かつては洗礼に用いていたが、近年は洗礼を授かる人がいない。現在では家にまいたり、「オマブリ」と呼ばれる紙の十字架に振り掛けたりして、主に清めに使う。
 川崎さんは「かくれキリシタンの信者がごしょうをしないと水は絶対に出てこない。キリスト教の祈りでは駄目です」と言い切る。「お水」は陶器のびんで保管して大切に祭る。何年たっても腐らず、減りもしないと信じられている。

 

 

 

それがこの島。肉眼ではよく見えず、カンがしたので望遠レンズ頼みで撮ったら、やっぱりものすごい柱状節理だった。

 

こういう「んーーーー」と気にしていた「点」と「点」がサッと繋がるようなとき、心の底から嬉しさを感じるなあ。

自分にしかわからない感動。

わたしはそれを大切にしている。

 

そして、いつか、わたしの中の「んーーーーーーーー」のすべてが解き明かされるのだろうと思う。たとえ自分がもうこの世にいなくても。

 

 

 

 

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