こないだ、思い立って急に、みたいな感じで「鎌倉行きます」って連絡もらって、夜ごはんを一緒にして、ちょいと一杯のつもりで飲んだらグラスがやたら蒸発してしまう夜(笑)みたいなことがあった。
セッションではなく、普通に個人対個人でのんびりわけもない話をつらつらと楽しい。
と言っても、
この方とは今に至るまで何度もセッションして、その都度ご自身が真摯に向き合って取り組んで、またその経過の報告もたびたびくれたりして、信頼関係が築かれて濃度が濃いからこそ持てた時間。
このようなケースは嬉しい。
思えば初見は2年前で、随分と硬い、何か自分の言葉を率直に出す前にあれこれと思い巡らせた一通りを口にしなければ気が済まないタイプの人だなあ、これでは息苦しいだろうに、、、、という印象を持っていたのだけれど、時が経つにつれ、どんどんと表情や雰囲気も和らいで軽くなっていく、着実に変化していくというプロセスがあって、今は「普通に」あれこれ話すことが可能になっているんだね〜、という現実になんだかじーんとした。
わたしのセッションでは「根本解決」をめざしている以上、「話すだけで気が楽になる」式のものでも、「本人の努力とは関係なく全てを解決します」でもなく、その人の抱えている問題のかなり深いところの開示、それも必ずや家族の問題を深く聞くことになる。
「瞬間的な気休め」を目的としていないし、体験談を聞かせればいいというようなスタイルのものでもない。
むしろ、予測もつかない途方もないケースを手探りで見ていくわけだから、「必ず解決したい」というご本人の意思と意識がなにより重要になってくる。
「意識が動かなければ現実は変わらない」は鉄則で、逆に言うと意識さえ動けば一瞬で解決することは多々あったりする。
わたしは一緒に意識を動かす手伝いをしているに過ぎないから、いろいろな質問事項と特殊なモードで表に出てこない情報を引き出したら、あとはグリッドを使ってその方ご自身が解決する。
これまでいろんな方を見てきて、最近
要するに「(その方の)人間らしさの復活」ってことなのかな、、、、って思ったりしている。
宇宙からのエネルギーとか、新たな次元のナントカ、とかよりも、その人が本来持っているはずの「人間らしさ」、それまでの人生経験の中で霧に包まれていたような状態になっちゃってた「慈愛に満ちたヒューマニズム」が、パカッと顔を出した瞬間、一気に解決に向かう。
逆に、そこが甘いと、つまり自身本来の人間らしさに蓋をした状態だと、劇的な解決は難しいのかもしれない。
しかし、それですら、人それぞれ。
瞬時に蓋が外れて溢れ出す人もいれば、徐々に、薄皮を剥ぐように外れていく人もいる。課題が重層化していれば、やはり一気に全てが解決!というわけにはいかないのは当然のことで、そこは根気強さや効果検証の継続が必要となってくる。
「慈愛に満ちたヒューマニズム」ほど傷つきやすいものはないから、人はそれを容易に表に出さないようにしてしまう。
大人になるまでに、上手に隠して、場合によっては自分にそれが備わっていることさえ忘れてしまったりする。人によっては幼い時からそれをやり続けてきた人もいる。そのようにすることが過酷な環境で生き抜く術になるのだから、仕方がないこと。むしろそのようにして生き抜いた自分は褒めて、今以降は気づけばよいだけだと思う。
何のことを言っているかというと、
例えばの話、兄弟と折り合いが悪い、といった場合、「なんで弟は(姉は)こういう態度なんだろう」と悩み、「どうして?」を探ろうとする。
あるいは「どうせこういう態度に出てくるに違いないから」とあらかじめ決めてかかって、その後の展開を読んでは憂鬱になったりしてしまう。
そんなことをやっているうちに糸は絡まり続け、もはや何が問題だったのか、ほどく糸口が見当たらなくなってしまう。
けれども、どんな現象であれ、奥底にある本当の気持ちは「弟と仲良くしたい」だったり、「気持ちが通じ合いたい」だったり、とてもシンプルで人間らしい感情だ。
しかしたいていの場合の「混乱の元」はやはり母親との関係で、そこはたぶん、人間が一生をかけて「正常化」させていくべき課題として最初から仕組まれているような気もする。
子供が親を思う気持ちは無条件だから、本当は「母親に愛されたかった」より「母親に愛情を注ぎたかった」の方が正解なのではないかと思う。
確かに子供時代に愛情をかけてもらえなかった(と受け止めた)場合、その後の人間関係や異性との愛情関係に支障をきたすことはあるかもしれないし、適切な承認が得られなかった場合、いつまでも過剰な承認欲求を抱えることにもなる。
また、親と言い争うことなく過ごしてしまった人は、人ともめた時の鎮火のさせ方、言い合いになっても和平が来ることを知らずに育つので、人間関係での摩擦を恐れて人と深い関係が築けなかったりする。
けれど、どのようにしたって結局人間は大人になるから、成長した我々は、「お母さんに褒めてもらいたかった」過去の気持ちよりも、「お母さんを思う気持ちを拒絶される恐れ」の方がより深い心理になる。
自分の「慈愛に満ちたヒューマニズム」が傷つくことを警戒している自分、に気づいて、そこを解放すると、名もなき奇跡が作動する。
聖母マリアの慈愛と、自分の慈愛が重なる時に、それが起きるということなんだろう、と、最近ものすごく深い納得感を得ている。
ここで大切なのは、自分の慈愛の解放が先で、解放が起きればマリアグリッドはそこをパワフルにアシストする、ということなんだろう。自分の扉を開けるのは自分しかいないはずだから。
外部に頼っている限り、大したことは起きない。