arrow-right cart chevron-down chevron-left chevron-right chevron-up close menu minus play plus search share user email pinterest facebook instagram snapchat tumblr twitter vimeo youtube subscribe dogecoin dwolla forbrugsforeningen litecoin amazon_payments american_express bitcoin cirrus discover fancy interac jcb master paypal stripe visa diners_club dankort maestro trash

Carrito de compra


盂蘭盆会、つまりお盆。自分に繋がる無数の星


盂蘭盆会、つまりお盆。自分に繋がる無数の星


お盆です。

 

「いわゆるお盆行事」というのは日本だけの風習と聞いたことがありますが、でも根拠はそれなりにあるようで。

 

盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウッランバナ」(ullambanaउल्लम्बन)の音写語であるという説がある[5][6]。「烏藍婆拏」(『玄応音義』)、「烏藍婆那」とも音写される。「ウッランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる、逆さ吊り)という意味である。しかし、この解釈は「盂蘭盆」の「盆」という語が経典内で「器」という意味で使われているという難点がある[7]。
一方、古代イランの言葉(アヴェスター語)で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説もある[6]。古代イランでは、祖先のフラワシ(Fravaši、ゾロアスター教における精霊・下級神)が信仰され、それが祖霊信仰と習合し、「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事となったとする。
2013年、仏教学者の辛嶋静志は盂蘭盆を「ご飯をのせた盆」であるとする説を発表した[8]。それによると、盂蘭盆経のうちに「鉢和羅飯(プラヴァーラ〈ナー〉飯)」という語があり、これが前述の旧暦715日・安居(雨安居)を出る日に僧侶たちが自恣(プラヴァーラナー : pravāraṇā)を行うことに関連付けられる。古代インドには自恣の日に在家信者が僧侶へ布施をする行事があったとし、それと盂蘭盆経が説く行為とが同じものであるとしている。また、盂蘭盆の「盂蘭」はご飯を意味する「オーダナ (梵; : odana, 特に自恣の日に僧侶へ施されるご飯を強調する)」の口語形「オーラナ(olana)」を音写したものであり、それをのせた「盆(容器の名)」が「盂蘭盆」であると説明する

 

 

最近わたしは、「お盆だから先祖の霊が帰ってくる」という考えは社会通念としてなんだか素敵だなと思うようになりました。

こういうことは若い頃は一旦否定したりします。どうでもいいバカバカしいこと、めんどくさいこと、という風に。

そのように、一旦チャラにしてからの、今。昔の人が大切にしていた風習って、やっぱりなんか意味があるものが多いと気づくお年頃。

いろんなことを自分なりに解釈し直すことは大切です。

 

 

「先祖」と言っても我々が直接「人物像」として実感があったり伝え聞いたりできるのは、せいぜいひいじいちゃん、ひいばあちゃんレイヤーまで。

それ以前の方々は、家系図や過去帳を大切にしているおうちならともかく、わたしなんかは名前すら知らない。

現在地点を「自分」だとすると、振り向けば果てしない、壮大なレイヤーが過去に広がっているわけで、今朝グラウンディングをしながらふとそのことを考えたら、この「自分につながる果てしない過去の名も知らぬ人々」が、まるで星空のようだなと思えて、その瞬間なぜか涙が出てきて、大きな感謝の気持ちを抱きました。

 

「先祖を大切にしよう」ということが、即お墓参りに欠かさず行く、ということではない。

むしろそんなもの(墓)は「物質」に過ぎないし、お墓に入っていない遥かないにしえの人たち、自分に繋がるこの無数の星たちの煌めきを讃えるというか、その人たちが生まれて、生きて、種を残したことで自分につながっているんだということをしみじみ考えることが大事です。

そんな風にして紡がれてきた「自分」を丸ごと受け入れることができずに悩んでばかりいるのなら、それこそ「ご先祖様に申し訳が立たない」のではないでしょうか。

 

肉体を持っているからこそできること、そこに付随して生まれるあらゆる感情。

それを味わい切ることが「生きる」ということで、死んだ人にはそれができない。

何もアクションはせず、内向きな自分探しでドツボにはまっているのは、それも一種の「コンフォートゾーン」。

アクションして得る感情は「生きた感情」。

 

夜空の星の美しさは、すなわち自分も「そのひとつ」だってことを気づかせるためじゃないでしょうか。

 

 

 

ところで、数日前に突然

お香を作れ

というお題がやってきました。

 

お香というものは奥が深く、語り出すと長くなりますので今は割愛するとして、

とにかく「お香ね、お香。はいはい〜〜〜〜〜」と気分アガっているワタクシですが、今朝、ふと

あ、お盆だからなのかな、、、、、

と思いました。

 

といっても、これから作るお香は仏壇用でもなければ、芳しい伽羅を楽しむものでもなく、平たく言えば「浄化用」ということになりますが、お香とはそもそも浄化用なのです。

(といって話し出すと長くなる)

 

脳内には完璧なイメージがすでにありますので、今後しばらくをかけてその具現化に向けて取り組みます。

素材を合わせて、手で練って、最後は火で熱して振動数を変化させる、

ということを考えると、要するにマリアグリッドと同じ。

 

従ってグリッドの働きを補助するものになります。

線香、塗るお香、丸玉にしたもの、、、などを想定しています。

 

このお盆には間に合わないけれど、スーパー銭湯ならぬスーパー線香を作ってやるー(アホ笑)

なんだか楽しくなってきました。