「聖母マリア」という存在に関しての、不思議系エピソードは世界中にたくさんあります。
とりわけ、わたしが気に入っているのは、巨匠ルイス・ブニュエルの『銀河』というサンチャゴ巡礼をモチーフにした伝説の作品の中で出てくるエピソードです。
出典確かそれだったと思う。記憶が怪しいですが。
ただ、このシュールと見せかけて実に深遠な映画の中に出てくるエピソードは全て史実であります。
ある修道女の話。
真面目で几帳面な彼女は教会の出納係を任されていた。でもやがて、出入りの業者と恋仲になり、駆け落ちして一緒に暮らそうとそそのかされる。
ああ、自分は神に背くことをしようとしている。
マリアさま、お許しください。わたしはあの男と恋に落ちてしまったのです。
それで、自分がいなくなっても皆が困らないよう、金庫の鍵を、いつも入れていたマリア像の下の隠し引き出しではなく、(誰かが発見するように)マリア像の足元にそっと置いて教会を後にする。
男との生活は1年ともたず、後悔した彼女は修道院に戻る決意をする。
みんなに責められても仕方がない。どんな叱責でも受け入れよう。自分の生きる道は教会しかない。
覚悟して教会に戻ったが、誰も彼女を見て驚かない。
それどころか、昨日も自分がそこにいたかのように全員が振る舞う。奇妙だ。おかしい。
は!金庫の鍵はどこにある?
気になって隠し場所を探すと、そこに鍵はちゃんとある。その場所を知っているのは自分と、マリアさまだけだ。
そこで彼女は気づく。
もしかして、わたしの不在中、マリアさまがわたしになって働いていたのでは?彼女は、わたしが教会に戻ることも知っていたのでは?
それで彼女はマリアさまの大きな愛を理解して号泣する。自分はすでに赦されていた。
・・・・そんなようなエピソード。
わたしはこの話が、真実であろうと、仮になかろうと、なぜかとってもとっても好きなのです。
多分、それは、多くの市民が同時に目撃した、とか、いくつものエビデンスがある、とか、そういうことではなく、極めてパーソナルな話だからかも知れません。
本人と、マリアさまだけが知っているものすごくインティメイトな真実。他人が介在する余地がありません。
どうしてこの話を思い出したかというと、
先日あるグリッダーから打ち明けられた話が、あまりにも凄まじかったからです。
プライバシーに関わることなので詳細は省きますが、
グリッドを手にしてどんどん内面の変化が加速する彼女は、離婚した夫と決別し、今の住まいを出たいのだ、という本心に気づきます。
そこで、遠距離の今の交際相手の家に、この連休中遊びに行くことにしました。
近い将来には自分の子供を連れてその相手と一緒に暮らしたいという期待があったようです。
彼の家に向かうのに、生命のグリッドを持参し、新幹線の中で並べたり。
そして、先方の自宅で、当人の不在中、偶然にして彼女はある書類を見つけてしまった、
その書類に書かれていたものは、これまでそのことについて、本人から語られたことはなかった、過去の重い出来事に関することだった、と。
その衝撃たるや、想像するに余りあります。
が、これは未然に情報を開示してくれた、ということなんじゃないのかな、とわたしは瞬間的に思いました。
これまで散々傷ついてきた彼女に、これ以上深い傷を与えないための。
加熱する気持ちを一旦クールダウンさせるための、事実の開示。
落ち着いて考えて、その関係をどうするのかは今後の当人たちの判断ですし、その未来がどうなっていくのかも当然当人たち次第だと思います。
が、ともかく「こういう事実があるよ」ということを、マリアさまは先んじて教えてくれたのかもしれません。
家を後にし、自宅に戻ると、生命のマリアさまの一体が行方不明になっていたそうです。
まあ、それは本人とマリアさまの間の、パーソナルな出来事ですから、周囲はそこに意味性を押し付けるべきではありません。
「意味」は本人だけが受け止めるべきこと。
「自立」が今後のテーマとなる彼女に、何らかのメッセージが届けられたことを祈ります。
マリアさまは必要なサポートはくれますが、未来を切り拓いてはくれません。それはあくまで、わたしたち自身がすることです。
しかし、それにしても、聖母マリアという人はいったいなんなんだろう???
とわたしは首をひねるのです。
生命のグリッドは、ちなみに、本人も気づいていないような、その人の根源的な部分を揺さぶる、と言われています。
ではまた〜!