わたしの性質上、「わかりたい!」と思ったら少しでも早くその「外殻」ぐらいはつかみたい。
曼陀羅わけわかんない。
せめてその「わけ」ぐらいはわかりたい。キモが何で、どこにあるのかぐらいの見当はつけたい。
こういう、「わけわからないからわけがわかりたいもの」はたくさんある中で、取りに行くタイミングというものがあると思うんだけど、
室戸以来そのタイミングなのかなと思って、嫌だけどとっとと本を入手した。
あくまでも「外殻」ぐらいは知ることができるかもしれないから。
どなたか一緒に解釈してくださる人いたら嬉しい。
けど、読み始めて数ページで早くも人の解説による限界を感じてしまった。
これは、その通りだと思う。実にその通りなんだと思う。
だけど、それ以降は結局、
その人(この場合は著者)の知り得ている知識を、その人の所持している言語で説明するだけのことで、すべて伝える側が会得している意識範囲に依存してしまうということがわかった。
だからこその「言葉では伝えられないもの」であって、
だからこその「肉体をもった体験」が必要なわけで、
だからこその「わかった人にしかわからない」領域であり、境地であり、また「できること」であるんだけど、
要するに「わかった人」かどうかは「わかった人」にはすぐわかるし、わかってない人にはやっぱりわからない、というだけの実にシンプルな実相になる。
まーそう考えると、余談だけど、
恵果阿闍梨が、やってきた空海を一瞥しただけで「こいつ、デキる!!!!!」と一発で見抜いたことも、
自分の死期が迫ってることもわかってるから、「この子に全部託してやろう!」って瞬時に決めたことも極めて当然のことだと思う。
要するに恵果阿闍梨には、空海の利発さ、振動数、背後に纏っているものの広大さなんかが「見えた」ってことだよね。
思うに、結局は
空海が到達し得た「場所」(物理的な意味じゃないよ)が「どんな」であるかという究極のゴール(的なもの)を先に提示できないから、
提示できないのは
・言語そのものに限界があることと、
・空海以外に達した人がいないから誰もはっきりわかんないってことと、
・個としての探求の上に衆生への恵み(言ったら施し。言ったら人徳)があるんだけど(しかもわたしに言わせりゃ後者は「勝手にそうなる」ようなもんなんだけど)、前者と後者が同時並行しなきゃいけない、みたいな観念が到達を妨げていること
で、道筋があまりにも複雑で多岐に及び、
結局、「それを成し得たお大師さまはすごい。やっぱり唯一の偉人だ、イエーイ!」
という意識範疇からは出られなくなってる永遠の迷路みたいなもんが、彼の死後今に至るまで続いているのじゃないだろうか、、、、、
という気がした。
その辺のことはイエスにも当てはまるのは言わずもがなだけど。
だけど、本人が「自分しか到達できないんだ、イエーイ!」と思っていたのなら、わざわざ弟子なんか作らないし、人に教える努力なんかしなかったわけで、
すげー難しいと思われる道のりだけど、誰でも行けるよー!
でも言葉じゃ言えないよー
みんな実践してねー
と言いつつ、
1000万人に教えて一人でもものになるヤツが出れば御の字
(ほとんど諦めてるけどナノレベルの希望はある)みたいな気持ちでいたんだろうな、、、、とわたしは想像している。
尊像の背後にある識大、すなわち「心を読み取ること」って、そんな抽象表現で誰が何をわかるのか。
せめて振動数と言ってほしい。。。。
書いていらっしゃるご本人も「それが何か」を掴んではいないから苦肉の表現であることは痛いほどわかるゆえに、要するに限界を感じる。
ここで問題なのは「権威と区分」あるいは「立場」で、
宗教には必ずエソテリックがあるわけだから、そしてそれこそが「真理」なんだから、宗教に属する人や研究家だけじゃなくて、医学の見地とか精神世界の見地とか、地学の見地とか、天文学者、占星術師、ヨギー、、、、あらゆる能力の人が一斉に解き明かしていかないと、結局は各分野でこの本みたいなのが増えておしまい、ということになってしまうわけで、、、、人類にとって非常にもったいない話であるし、せっかく道を示してくれた空海さん達にとって失礼なんじゃないかとわたしは思ってしまう。
まーそんなわけだから、わたしが求めているような曼荼羅の解説本がないことの背景だけはよくわかったよ、というお話でした。
ま、でも、もう少し読み進めようかなとは思う。
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