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人体とエネルギー:友達を失って、わたしが決めたこと
去る3月24日に、わたしは元同僚であり、信頼できる長年の友人であった女性を失いました。
46歳。ガンでした。
その発覚を聞いたのは昨年の夏のことでした。
その時にはすでに彼女は、抗がん剤というものを使っての今後の治療方針を決めてあり、「わたしが口を挟むことによってその決心を揺らがせてはいけない」と、瞬時に判断せざるを得ない状況でした。
それはわたしにとって、辛いことだった。
打ちのめされた。
なぜならわたしは抗がん剤というものに対して非常に懐疑的、もっとはっきり言えば、「良くない」と思っている人間だからです。
この、「なぜ良くないのか」という話は、5分や10分で済まされる話ではありません。
ただ単に否定しているわけではありません。
その根底には、一言で表すなら QUALITY OF LIFE 、
あるいは人間の尊厳、
あるいは生命というものをどれだけの深度をもって考えるか、という究極の思想があります。
わたしは父も、父方の祖父母もガンで亡くしており、ガン治療のプロセスというものを知っています。
それは一度その俎上に上がってしまったら、自分から判断して適度なところでやめる、ということが事実上できない「仕組み」であることを理解しています。
また同様の経験ある親しい友人たちとも、抗がん剤については話題に上る事項だったりします。
が、何が一番厄介かといって、
ガン治療の問題についての当事者意識は、当事者になるまでみんな持たない
ということが最大の問題なのです。
自分に「それ」がのしかかってくるまで、それは他人事なのです。
なぜかと言えばそれは怖いから。
考えたくもない縁起悪いことだから。
そんな恐怖心を、ガンというものがいだかせるような「扱いのされ方」をしていると思う。
怖いですよね?でも大丈夫ですよ、先進医療がありますから。
さあ、ガン保険に入りましょう。
そんな感じのCMにバンバン煽り立てられている。
そしてその、恐怖からくる治療プロセスについての無知さの上に、ガン治療は成り立っている、とさえわたしは考えています。
わたしよりはるかに若かった彼女が、もうこの世にいないことは悲しい。
それを言うなら、彼女は
わたしよりはるかに体力があって
わたしよりはるかに向上心があって
わたしよりはるかに根性があって
わたしよりはるかに責任感があって
わたしよりはるかに達成意欲があって
わたしよりはるかに真面目で
わたしよりはるかに頑張り屋さんだった。
この1ヶ月、わたしは凹みに凹んだ。
なぜなら「自分の人生は何かが違っていた」と最後に言われたから。
そんな言葉は、重い。思い出すと今でも涙が出てくる。
そして自分の無力さを呪いました。
しっかり凹んだ挙句、わたしは決めた。
「人体とエネルギー」ということについて、一人でも多くの人に関心を持ってもらえるよう、
これまでになく真面目に、真摯に発信して行こうと決めた。
つまりエネルギーについて「知っておくこと」は、スピリチュアルな趣味でもエンタメでもなく、むしろ教養とか常識といったものにならなければいけない、と思うのです。
それは「信じる・信じない」といったバカバカしいレベル感のことではない、
「知っているか、知らないか」が、人生の全てを分けると言っても過言でないこと。
エネルギーが、あなたの人生にどういう作用を及ぼすのか、そしてそれはなぜなのか、ということは
もはや謎でもなんでもなく、わたしにはある程度のレベルまで踏みこんだ理解ができてきている。
そして、マリアグリッドが、あなたの何にどのように作用するか、ということもきっちり説明をしていきたい。
しかしそれを受け手が理解するには、エネルギーというものが一体どこからきて、どうなっているのか、根本的なところの認識が不足していたらやっぱり「わからない」で終わってしまう話。
それで先月から、まさに「人体とエネルギー」というテーマで、zoom講座に取り組み始めました。
この講座をやるにあたり、絶対わかってもらえるよう、端折ることなくキーノートを作った。
今も続編を作っている。
作りながらわたしは、あることに気がついた。
それは、どうして自分が今まで、キラキラ系スピリチュアルにイラっとするのか、という、根本的な理由がわかった気がしたのです。
要するに、人間というものの本質をどう捉えるか
自由とは何か
という考え、哲学、思想なしに
自分に都合の良い「ご利益」ばかりを求めるチンケな話に、わたしはずっと違和感を感じていたのだ、ということが、自分の中できれいに腹に落ちたのです。
地球に生きる存在である以上、わたしたちは「肉体」というものを与えられ、それゆえの人生というものを歩まされるわけで、
この最も重い物質化した振動数である肉体というもの、身体というものを持たずして生きていくことは「できない」わけで、
よりよく生きるも生きないも、結局最後は「肉体」に依存するところが大なのに、この健康という問題は、先述の通り、自分の身に何かが起きるまで注意を払われない。
自分の中に流れるエネルギーが肉体の健全さを保持してくれているにも関わらず、
誰もそのエネルギー(=あなた自身)に感謝の気持ちを向けたりしない。
また「癒し」という膨大に深遠な意味を持つこの言葉が、
イミフなレベルにまで陳腐化して使われているわけですが、
本当の癒しとは、ある条件を満たした時に
あなたの内側で勝手に起こるもの
であって、どっかのエステサロンで得るものでもなければ、ジャニタレに与えてもらうものでもありません。
そして、その深遠な規模感での「癒し」が起きた時、
それは「治癒」となります。
治癒はあくまでも内側から起こるもので、外部の手を通じてなされる「治療」とは本質的に全く別種のものです。
で、この「治癒力」が最大限に働いていれば、
その人生には何の問題もない
絶対的な幸福(誰かと比較しての相対的な幸福度合いなどとは相いれない絶対的なもの)
を得ることになります。
当然、「望んだら与えられる」ということも増えていくでしょう。
そして無理なく循環させる、ということも可能になるでしょう。
あるがままの自分を受け入れることだってできるでしょう。
自分と違う意見に直面してもいたずらに怒ったり批判的になったりしないでしょう。
自分の本当の望みに気づいて、それに従って生きることもできるでしょう。
だからヒトの体にとってエネルギーがどう作用しているのか、
そもそも人間とはどういうものなのか、
わたしは自分が把握している限りのことを、自分の言葉で、拙いながらもしっかり伝える努力をしようと思います。
一人でも多くの人が、知るに値することだ、と受け止めてもらえるように。
ヒトのRNAをいじるものが合法的に、フルスピードで開発された以上、もはや「わかる人だけわかればいい」などと言って、わかった気になって満足している場合ではないと思います。
あなたは良くても、あなたの周りの大切な人を失うことは辛いです。
なので、できれば理解したことをあなたも周囲に伝えてほしいと思っています。
わたしの友達は、最後まで、「彼女らしく」生き切る姿を見せてくれ、そこには大きな感動だけが残りました。
つまり人間は、その最期に及んでは、極めて美しい奇跡を残すものだということも、改めて実感しました。
けれども、一方で彼女が自分に現れていたサインをもっと深いところで受け止めていたら、結果は違っていたのかもしれない、という疑問は持っています。
「負の仕組み」のシリーズでも書いていますが、人間の負の想念、つまり後悔や失望は、その人が亡くなった後でも地上に残ります。
わたしは、この地上に残った負の総量をこれ以上増やしたいとは思いません。
彼女に対する尽きない愛情と尊敬を持ちつつも、感情は脇に置いて、この一連の経験から見てとれたことをこのあと綴っていけたらとも思っています。
人体とエネルギーのzoom講座は、今のところDay1とDay2まで進んでいます。
こちらからビデオ視聴が可能になっています。
ぜひご覧ください。