知人がシェアしていて知った、坂爪圭吾さんという方のnote記事。
わたしも中学生ぐらいの時に観た『鬼畜』という映画作品について書かれたものだけれど、思うところあったので、紹介します。
https://note.com/keigosakatsume/n/n2484cb5e892e
人が「コンフォートゾーン越え」に取り組むとき、「怖れ」は最大のテーマになってきます。
しかしそれはごくごく自然なことで、人は誰しも無意識に、「怖れ対策」=防御をしてしまうものだから、「怖れ」を感じないようなことをいくらしても「コンフォートゾーンの範疇にいる」わけで、ゾーンどころか何も越えません。
だから、自分一人で、何のアクションも伴わずに、ゾーンを抜けることは事実上不可能なのです。
ここで、上記の記事中にあった箇所が、「どうしても抜けられない人」に共通することかと思われたので引用します。
実はこれはコンフォートゾーン以前の問題で、自己表現ということに過剰な怖れを抱く人、過不足のない「ありのまま、感じたまま」を外に出せない人に共通すると言った方が正確です。
大なり小なり、誰もが「置き去りにされる恐怖」を抱いたことはあると思う。置き去りにされる恐怖を抱いた人間は、自分を表現することよりも自分を周囲に合わせることに命を燃やす。自分が環境に適さなければ爪弾きにされてしまうという恐怖感が根底にあるために、自分を出すなんてことの優先順位は低くなる。全部、愛のためだ。子供は、親を愛しているからこそ自分を殺す。
基本、子供は親を無条件に愛しています。
よくみんな反対に捉えているけど、それは逆。
そして生まれ落ちたら数年間、子供は親の保護なしには生きられないのがヒトという生物です。
「怖れ」は他者との関係性です。
人間はこの地上にたった一人で生きていたら、他者からの脅威は感じ得ません(また、たった一人で生きていたら、貨幣経済も存在しないのでお金の恐怖すらも存在しない)。
しかしながら実際の地上には自分以外の人間がウジャウジャと存在しているわけで、過剰な恐れを抱く人は、平たく言えば自分以外のすべての人が怖い。
さらにいうと、自分より優れた(かのように、その人にとって見える)人のすべてが怖いわけです。
自分より優れた人=ガキの心理から見た「親」。なぜなら親が世話してくれないと子供は生きられない。
でもねー、自分より優れた人もいなければ、自分より劣っている人もいない、という根本的な原理原則に目と心を開かないと、これから先もキツイですよ。
こういった場合、幼少期の「親の状態」からの影響を考える必要があり、その時の自分が与えられなかった「安心」や「やすらぎ」について、過不足なく認識し直して、
今の自分が(これめっちゃ大事)過去の自分に、存分に渇きを潤してやればいいのです。
これは、「親が悪い」 で済ませれば良いわけではなく、「親もまた状況の被害者だった」ということにまで理解が及ばなければ、この「癒し」は片手落ちとなります。
さらに理解に長けた人は、「では、その状況が作られたのはなぜか」というところにまで探求を広げられるはずです。
「被害と加害」という考えから一歩先に進まなければ、この心理トラウマは解消されませんし、さらには、この世界の分断化の片棒をかつぐだけになります。
人生のある時点で、我々「子供」は確実に親を超えます、心理・精神的に。
というか超えないといけない。
親より大人になった自分の視点で親を見る。
これが非常に大切なプロセスとなります。
そして、ガキではない大人の立場で親に寄り添いしているうちに、「やっぱり、親は親だった」というさらに大きなものに気づいたりします。が、これは気付けなかったからといって問題はありません。
傷つくことを避けたいと思うことは当然の感情だが、傷のある作品を、昔の人々は創作物と名付けたのかも知れない。誰だって、痛いのは嫌だ。傷つくことは嫌だ。だが、触れたものの心を動かす作品には、目を背けることのできない痛みがある。健康な時に痛みを意識することはない。病気の時、怪我をした時、傷口からあふれだす痛みが「生きている」ことを訴えている。
喜びと同様、痛みすらもわたしたちに同等に与えられたギフト。
子供時代に蓋をしてしまったパンドラの箱を開けるのも勇気がいります。でもたとえいろんな、「忘れたふりをしていたもの」が飛び出しても、最後には希望しか残らない。
逆に言えば、希望のために、鋭利な感情の残骸を整理することは必須。
マリアグリッドは、そんな勇気を持つ人に有効です。そして、パンドラの箱のお掃除に、「因縁探偵」ことクリアリングセッションもお勧めします。