非常に印象的なことがあったので、長いですが記しておきます。
このところのセッションご相談内容に、《親の介護(看病)をしている兄弟との関係性悪化》が立て続けにあり、そうか、わたしたちそういうお年頃。このケースはけっこう多いか、今後増えるだろうな、、、、と感慨深くお話を伺いました。
ある方は、在海外で、日本にいる弟が実家の両親のお世話をしているが、この弟氏との意思疎通が全くスムースではなくなってしまった。
親を施設に入れるのか問題が課題のようでした。
弟氏は、ことあるごとに姉であるクライアント(Aさん)の言葉尻に反応しては強烈な返しをしてくる。あるいはAさんの生きざまに対しても、明らかな批判ならまだしも、チクチクする嫌味で刺してくる。
彼女は海外にいる以上、家のことは弟氏に一任、つまりどういう決断をしようと彼の判断を尊重する、という姿勢ですが、弟氏は感情的になってまともな会話が成立しない、という。この状態が数ヶ月続き、Aさんは参ってしまった。
どうしたらいいのだろう、というのが大枠の筋。
しかし、聞いていると弟氏が求めているのは、今すぐ帰国して介護を手伝うべきだ、というようなことではない。そばにいないことを恨むことではないと見受けられ、むしろ「精神的な寄り添い」を必要としているのであって、しかしそれこそがAさんにとって最も苦手としていることのようでした。
ああ、兄弟ってすごいなあ、素敵だなあ、、と一人っ子のわたしは純粋に感動。親の最期というタームにきて、兄弟とはお互いに「学び」をもたらす存在なんだなあ、、、、と。お互いでこの困難を乗り越える時には、お互いがさらに成長している。
そんな「この世の仕組み」「DNAの意味」についてまた深く感じ入りました。
介護、看病の現場って、毎日そこに実際携わる人とそうでない人の間には確実な隔たりがあります。
現場にいる人にしか見えないこと、日々の変化はたくさんあり、それを口頭で伝えたところでノン現場の人に100%伝わるかといえば伝わりません。これは良い悪いではなく、「そういうもの」だと思います。
現場では心乱されることも多く、感情が揺れるのは当然のこと。冷静さを欠くことだってあるかもしれません。
そんな時に「支え」になってくれるのがノン現場にいる兄弟姉妹。あくまで冷静な視点を持ってカバー役に、、、、、
というのは理想像ですが、なかなかうまくいかないこともあるのだと思います。
どこの家庭でも闇はあるし、誰もが羨む平和で愛に満ちた家庭、、、なんて幻想です。愛情面のやりとりが「妥当」でなかった家庭に育てば、その影響は必ず子供に出る、それも当然のことです。
しかしある意味で我々は、そんな「過去の欠如」を、一生をかけて「補完」していき、結局最後は大団円となるべきシナリオも、同時に用意している(用意されている)んですよね。
弟氏の深層心理は、「誰かに甘えたい」、、それはおそらく、母親に甘えたかった気持ちの発露なのではないか。姉へのそのような態度は、ある意味で弟氏は感情を解放しているのかもしれない。
Aさんご自身も、「その家」にいるのが嫌で、自立の道を早くから模索し、遠く離れたところでの生活を選んだ。弟氏だって、それができたかもしれないが、親の最後を面倒見るという責任感から今の立場を選んだ。
Aさんには、まずそのことを、きちんと言葉にして労いを伝えるようアドバイスしました。
その上で、弟氏の日々の言葉に脊髄反射することはやめて、局面対応ではなく、一家の「大団円」とはどういう状態か、まずそれをイメージして欲しい。その上で、大団円に向かうべき提案をしていくことが大切では?と申し上げると、
「大団円のイメージなんてないんだよね〜」
と返ってきました。
「昔から、弟は弟で独立した人間だと思っているし、家族って言っても実はピンと来たことがなくて、、、、」
オーノー!これは重症です😢
いや〜、
本当にそうであるならば、弟氏がどんなことを言ってこようと、衰弱するほど気にならないはず 。
だいたい、そんなこと言っても、両親の「爆沈問題」を気にかけたり、年に一度は実家に顔を出すことを自らに課しているわけで、「子から親への愛情」は少なくとも、十分に持っておられるAさん。
優しい気持ちや、人を思う気持ちが実は人一倍あるのに、「自分がその気持ちを持っている」ということに、自ら気恥ずかしさを感じているんじゃないですかか、、、とお伝えすると、
自分には「愛情というものがよくわからない」ということにして、何かを封印してきたかもしれない、と気づかれました。
親に、丸腰の愛情を拒絶された、打てども響かず、、、というような、子供時代の体験が影響して、全てを合理的に割り切って選択していこうと自立を急ぎ、人生を切り拓いてきた。。。
それはちっとも間違ったことではないし、事実立派に切り抜けてきたからこそ、今がある。
それは誇るべきことなのだけれど、この局面においては、そのようにして生きてきた「メソッド」では太刀打ちできない、、、ということが浮き彫りになったということなんですよね。
見ないようにしてきたものの封が解かれる。それはやっぱり、兄弟という血を分かった者の手によって。
すごいと思いませんか?わたしは深く深く感じ入りました。
Aさんはそれで、「自分は傷つくことを極端に怖れていたんだ」ということに気づかれました。自分の根幹には「おそれ」がある、と。
このおそれによって、何につけ素直な情緒を持ったまま、いわゆる自然(spontaneous)な会話を「しない」という癖がついてしまい、あらかじめ相手の反応を「想定」して、心理武装して臨むようになってしまった。。。
こういうケースは実によくあることだと思います。
本心が浮上してくるそばから深く押し沈めてしまうので、自分の「本心」を探り当てるのに苦労してしまいます。
しかし「赤子のような心」というのは、相手の反応を想定せず、嬉しかったら笑い、不快があれば泣き、抱っこして欲しかったら手を伸ばす、、、そんなようなもの。これを思い出してみてほしいのです。
で、人というのは「鏡」だから、こちらが悪い想定の心持ち、曇った鏡で臨めば、悪い反応となって返ってくる、磨いてピカピカしていれば、ピカピカな光が相手に届くのでは?
などということをお話しして、
ご両親や、ご兄弟に対して「実は」持っているやさしい気持ちや、彼らが負っているかもしれない負の感情などについて素直に見つめてみる、ということにトライしてみましょう、、、とお伝えしました。
これには後日談があって、父上には兄弟もいたのだけれど戦死されている。実はAさんが初めての一人暮らしをした大田区のある場所は、若き日の父上が暮らしてそこだけ戦禍を免れた土地だった。もしかしたら亡くなった叔父にあたる方たちが、Aさんをそこに誘導したのかもしれないね、、、としみじみ。
つねづね「自分なんていない」と言っていますが、自分だけの力、自分の選択で生きてきた、という思い込み眼鏡を外すと、結構いろんなことに気づいて深い感謝の気持ちを持てたりします。
「自分以外の人の身になって考える」って、道徳的な意味ではなく、「自分」を外した想像力だと思うのです。
まず自分自身の純粋な気持ちを、良い悪いのジャッジや、適当なラベリングを外して見てこそできることかもしれません。
さらに後日、ひょんなことからスムースに流れ、父上が無事に介護施設に入所となり、ピリピリしていた弟氏の緊張が解けたと報告をいただきました。
よかったです。
時代はどんどん変化していっているので、「想い」が現実になる速度も速いです。
向き合い続けたAさんは本当に立派だと思います。
絶対無理だ!
と思っている課題の解決に、このセッションをお役立てください。「向き合い力」があれば、絶対無理ということは何もありません。
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